Politics of Memory in Latin American Literature ~其の二~ 後編
Politics of Memory in Latin American Literatureのクラスの紹介記事。
其の二の最後です!
(詳しくはこちらのエントリーから)
sheepatcarleton.hatenablog.com
もう1年も前のクラスを思い出して書くのって、いくらそのクラスが印象的でもなかなかきついものがあります。
幸運にも、Response paperが見つかったので、1つ記事を書けるだけの内容はあります。
もはや私のpaperを読んでくれ!という感じですが、日本語にするというプロセスと「今」振り返るとどう自分が捉えるのか、という2つの意味で、ここで記事を書きたいというところです。
3. "Sneselessness" Horacio Castellanos Moya
Recovery of Historical Memory Project (RHEMI Project) の証言集の編集を任された主人公のお話。RHEMI Projectは、グアテマラの市民戦争中にあった残虐行為の記録を残すプロジェクトで、多くの先住民の証言を翻訳する必要がありました。
この物語の舞台、背景は現実にあったことですが、その翻訳の校正、編集を任された主人公の話自体はフィクションです。
さて、この物語の面白いところは、びっくりするぐらい下ネタというか、異性に対してや性行為の描写が多く、また主人公の気が割と狂っているところです。
これが大事な歴史を伝える文学作品の一つとして授業で取り扱われるんか、という驚きが初めありました。
しかし、この特徴的な描写が、普段タブーとされることを言語化して世に伝えることをはるかに助けている、と私はresponse paperの中で述べています。
残虐行為の中にはもちろん性的暴行も含まれます。普段私たちはそんな話したがらないし、気にもしようとしません。
しかしこの本の中で主人公が普段からそういうことを考え描写することで、読者はそういった描写に慣れ、
その中でたまに性的暴行の描写を読んだとき、万人が読み進められるといったら嘘になりますが、
突然性的暴行の証言を読むよりはるかに読み進められる可能性が高いと思われるのです。
授業ではあまり深く議論しませんでしたが、こうしたノンフィクションを交えたフィクションについてよく問題となるのが、
「史実を自分の芸術的表現のために利用していいのか」 という問題です。
Senselessnessについて言えば、私は、RHEMI Projectそして市民戦争の歴史を伝えるうえで大事な役割を果たしたと捉えています。
なぜなら、普段なら読まないであろう1100ページもの証言集を、こうしてフィクションに織り交ぜることで、
普段全く興味のない人達に被害者の存在を知らせることができるのです。
正直グアテマラの歴史、マヤ先住民のことを全く語れないのですが、なれ1960年から1996年にかけて市民戦争があり、
先住民がかなり侮辱されていたことは、世界中の多くの国であったようにグアテマラでもあって
その声なき声にきちんと耳を傾けようという取り組みがあったことに、よかったという安堵と、
実はその主導者(カトリック教会が主導団体)は暗殺されてしまったということからわかる抑圧された社会に対するやるせなさを
Senslessnessを通して感じ取ったのでした。
さて、このクラスのPhase Ⅱ: Read Latin American Literatureはおしまいです。
次回はいよいよ私のFinal paperについて。やーっとだ。