迷える子羊@Carleton College

アメリカのカールトンカレッジに通う人の徒然草。

振付家兼映像作家の篠原憲作さんから聞いた話

数日後に何を書いたか記録しようって言って私の中での数日後の定義に自分でもびっくり。

 

はい、先日振付家兼映像作家の篠原憲作さんから1時間ほどお話を伺いました。自分がダンスの世界をあまり知らないので一般的にアーティストとして働くことはどういうことなのか、と、コロナの状況を受けて、という感じのトピックを念頭に話を進めていきました。

 

 

 

もうずいぶん日が経ってしまって、覚えていることが少ないですが、逆に記録しないでも覚えていようとすることは、脳にとっていいエクササイズかとも思います。

(小学生のころ、友達の電話番号を暗記していたけれど、今ではなんでもスマホのメモ機能や、リマインダーで忘れないようにすることができるので、どんどん脳は記憶という役割では使われなくなっていますね。想像・創造力にその分エネルギーを注げるといいのですが)

 

 

まずは、覚えていようとしたことではなく、自然と頭に残っていることを記してみます。せっかくなので自分の感想も添えて。

 

 

 

「非言語的なものだからこそ、言語化は大事」

非言語的なものだからこそっていうのはちょっと違うかもしれません。何かプロジェクトをするためのグラント申し込みではいつも自分が何をやっているのか何をしたいのかの言語化が必要です。

 

私はダンスを、言葉にならないものを表現するもの、言葉でうまく表現できない自分にとっての表現のツールというように捉えていました。言語化できる人が常に力を持つ世界において(歴史の記録というのは、権力があって、そして書き残せる人が残している、という事実からそう考えています)、自分はうまく言葉でコミュニケーションを取れないけれど、ダンスなら、という感じで。逃げではないと思う一方で、だからといって言語化する練習をさぼってはいけないので、ダンスを逃げの理由にしてはいけないと思うようになりました。

 

ノートによると、正確には、アートだからと言って言語が要らないわけではない。また、言葉を広げようと思って活動している、とのこと。

以前篠原さんが映像面で協力をした「なんでないの」というプロジェクトを例に、アートの抽象性の良し悪しを語ってくれました。。が。。それは次回へ。

 

 

「伝統を壊すことに挑戦したいけれど、『挑戦』ということだけが魅力の作品を作りたいわけではなく、アートとしての質をきちんと追究したい」

 

私は最近、観て楽しむためのダンスではなく、プロでない人がどうしたらダンスという経験をして、ダンスのその先の経験をできるかということを考えようとしています(こういうことがしたいと思っているだけで、何も具体的なことは見えていません)。篠原さんのウェブサイトの中にあったPLAYGROUNDというプロジェクトの動画を見て、私はこういうものに近いことをしたいと思い、どういった思いでそのような活動をしているか聞きました。篠原さんは、これまでの伝統的なパフォーマー、ステージ、オーディエンスという構造に囚われないものを作ろうと探究しています。一方で伝統の良さも自分に取り込み、「挑戦」だけが面白味の作品にならないことを心掛けています。

 

最近、zoomによるダンスクラスや映像作品が多くあり、それは一つの適応として参考になるものばかりです。一方で、ただオンライン化すればいいのではないのが、アート/アーティストの美学というのでしょうか。私もそれには同感で、ダンスを好きだったのは画面を見なくてよくて現実に自分の身を置き、その瞬間を感じ、その瞬間を目に刻めるからだったなのに、今では映像を見続けることが必要です。常にインターネットというものとつながっていることを要求されているようです。私は最近、せめて音だけ、イヤホンを耳に入れるのも望ましくはないけど、新たな形として音から何かを生み出す経験を、今の時代だからこそできる経験を、考え出せたらいいなと思っています。

 

 

これだけでも十分時間を使ったので、続きをまた今度書こうと思います。

 

 

 


 


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2年生の夏休み ~つぶやき~

いやあ、まさかLatina American Literatureのクラスの其の三を書いていなかったとは。。。

この夏休み中に書いてやろう。

 

 

 

今日はふと、自分が見聞きしたことを記録してはどうかという話を人からされて、noteに書くのもよさそうと思ったものの、このブログのプラットフォームがすでにあるので今はひとまずここに。

 

 

 

今までアウトプット大事だとか思いつつこうも続かないし、他に何人もの人が記事を書いてて私が書く必要性は。。苦労するぐらいなら。。という感じでまあさぼってきたわけですが。

 

 

自分は、振りをしているのか本心なのか、人が人生の選択をどのようにし、どのように生きているのか興味を示すことがよくあります。

興味を持ってもらえないことの悲しみをかなり知っているというか、かなり悲しいと勝手に想像するので、自然と興味ある感じをいつも顔に出します。

 

自分の好感度が上がれば、のちに助けてもらえるかなって、コネクションが大事なのは知っているので、だからまあやっぱり自分の利益のために身に付けた行動パターンなのかなとも思いつつ


実際人の話を聞くのは面白いわけで。

 

 

 

 

何はともあれ、今日、あるダンサー兼振付家兼映像作家の方にお話を聞いていた時に

 

「なかなか迷える子羊(私の名前)さんみたいに話を聞ける方はいないと思います」

 

「自分は書くことも好きですけど、自分で自分のことを書くのは難しくて。もうちょっと広げていきたいけど書いてくれる人もいないので、noteとか書いたらどうですか。」

 

そういうことを言われました。

 

 

 

 

たまに、私は雑誌の記者が向いているのかなあって思うのですが

うーーん、これまでにない仕事を作りたいって野望もあって特に記者という職業を深掘りすることはなく

 

 

 

興味ありげに聞いて、引き出し方がうまいかはわからないですがいつも自分の話をしないで終わるから、相手に謎に思われるまま話が終わるんだろうなって、ちょっと申し訳ないような、自分のことを話せなくて悲しくなるような、相手をたくさんしゃべらせたからやったね、なんて思うことも多々

 

 

 

 

話してもらうにのも貴重な時間を取るので、本当なら対価をお支払いしたいところですが、そうもせず

 

 

せめて発信すべきなんだろうな

 

 

いうことで

数日後に何を聞いたかここに残しておこうと思います。

 

 

目標は、変にまとめようとして時間を使いすぎないこと。とかいってこの記事書くのにもそれなりに時間を取るのですが。。。

 

 

 

 


 


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Politics of Memory in Latin American Literature ~其の二~ 後編

Politics of Memory in Latin American Literatureのクラスの紹介記事。

其の二の最後です!

(詳しくはこちらのエントリーから)

 

sheepatcarleton.hatenablog.com

 

 

 

もう1年も前のクラスを思い出して書くのって、いくらそのクラスが印象的でもなかなかきついものがあります。

幸運にも、Response paperが見つかったので、1つ記事を書けるだけの内容はあります。

もはや私のpaperを読んでくれ!という感じですが、日本語にするというプロセスと「今」振り返るとどう自分が捉えるのか、という2つの意味で、ここで記事を書きたいというところです。

 

 

3. "Sneselessness" Horacio Castellanos Moya

 

Recovery of Historical Memory Project (RHEMI Project) の証言集の編集を任された主人公のお話。RHEMI Projectは、グアテマラの市民戦争中にあった残虐行為の記録を残すプロジェクトで、多くの先住民の証言を翻訳する必要がありました。

この物語の舞台、背景は現実にあったことですが、その翻訳の校正、編集を任された主人公の話自体はフィクションです。

 

 

さて、この物語の面白いところは、びっくりするぐらい下ネタというか、異性に対してや性行為の描写が多く、また主人公の気が割と狂っているところです。

これが大事な歴史を伝える文学作品の一つとして授業で取り扱われるんか、という驚きが初めありました。

 

 

しかし、この特徴的な描写が、普段タブーとされることを言語化して世に伝えることをはるかに助けている、と私はresponse paperの中で述べています。

 

 

残虐行為の中にはもちろん性的暴行も含まれます。普段私たちはそんな話したがらないし、気にもしようとしません。

 

しかしこの本の中で主人公が普段からそういうことを考え描写することで、読者はそういった描写に慣れ、

その中でたまに性的暴行の描写を読んだとき、万人が読み進められるといったら嘘になりますが、

突然性的暴行の証言を読むよりはるかに読み進められる可能性が高いと思われるのです。

 

 

 

授業ではあまり深く議論しませんでしたが、こうしたノンフィクションを交えたフィクションについてよく問題となるのが、

史実を自分の芸術的表現のために利用していいのか」 という問題です。

Senselessnessについて言えば、私は、RHEMI Projectそして市民戦争の歴史を伝えるうえで大事な役割を果たしたと捉えています。

なぜなら、普段なら読まないであろう1100ページもの証言集を、こうしてフィクションに織り交ぜることで、

普段全く興味のない人達に被害者の存在を知らせることができるのです。

 

 

 

正直グアテマラの歴史、マヤ先住民のことを全く語れないのですが、なれ1960年から1996年にかけて市民戦争があり、

先住民がかなり侮辱されていたことは、世界中の多くの国であったようにグアテマラでもあって

その声なき声にきちんと耳を傾けようという取り組みがあったことに、よかったという安堵と、

実はその主導者(カトリック教会が主導団体)は暗殺されてしまったということからわかる抑圧された社会に対するやるせなさを

Senslessnessを通して感じ取ったのでした。

 

 

 

さて、このクラスのPhase Ⅱ: Read Latin American Literatureはおしまいです。

次回はいよいよ私のFinal paperについて。やーっとだ。

Politics of Memory in Latin American Literature ~其の二~ 中編

 

Politics of Memory in Latin American Literatureというクラスの紹介の記事。

Phase Ⅱ Read Latin American Literature の中編です。

これまでの記事はこちら。

 

sheepatcarleton.hatenablog.com

 

sheepatcarleton.hatenablog.com

 

sheepatcarleton.hatenablog.com

 

 

 

2."The Little School" Alicia Partony

Dirty War(汚い戦争)の頃、アルゼンチンにあるThe Little Schoolという名の拘置所でのPartonyさんの実体験がつづられています。

彼女は、ある日突然拘置所に連れていかれ、それ以降ずっと目隠しをさせられ日々を過ごすことになります。

他の人も目隠しをさせられ、お互いに話すことは禁じられている中で、

彼女達はひそかにコミュニケーションを交わしたり、自分の生存だけを考えざるを得ない状況下で互いに同情したり、人間らしさを保とうと生きる部分が描かれています。

 

Partonyさんは目隠しをしていましたが、鼻が高かったためか目隠しの隙間から外の世界が見えたので、彼女の作品は事細かに描写されています。

作者自身、冒頭で「どこまでが真実でどこからが想像かはわからない」と言及しています。

見えていようがいまいが、正直ノンフィクションと分類されるジャンルは、どこまでが真実かは定かではありません。人の記憶というのはいつも主観によると私は考えます。

認識できるものが記憶として蓄積され、その認識自体人によって異なるうえ、

蓄積された記憶そのものも時間の経過と共に変化します。

 

そして特徴的なのは、彼女の話はvignette ("a short impressionistic scene that focuses on one moment or character and gives a trenchant impression about that character, an idea, setting, and/or object." from Wikipedia) で構成され、とても断片的です。

 

 

それでも彼女が一つの本として残したのはなぜでしょう。

 

 

 

 

 

私がこの本についてエッセイを書くとき構成について書こうとしたのですが、このvignetteについて一つ言えることは、

この断片さは、彼女の経験を読みやすくするという「目的のため」と私は勝手に思っていたのですが、

実際彼女の記憶が断片的で、vignetteにする以外手法がなかった、「自然の成り行き」だったという風に読み取ることもできます。

 

私が前者のように推測したのは、彼女のこの作品はかなり読者や他のことを考慮して作られていて(後述しますが)、彼女がどうすることもできず自然にこうなった、とは考えにくかったのです。

 

このvignetteという形式を通して、人の記憶がどのように形成されているのか、捉えることができる、と文学の奥深さを学びました。

 

 

 

 

私がかなり意図的だ、と感じた理由について。

 

他の文章やDeath and the Maidenのような本を読む中で、Partonyさんの作品で印象深かったのは、

①彼女の堂々と記憶に対面している点

②滑稽さを加えて読みやすくしている点

の主に2点です。

 

①堂々と記憶に対面

アウシュヴィッツ収容所の生存者が苦労したように、トラウマ体験を自分で捉え直して抱えながら生きるというのは容易ではありません。

しかしPartonyさんは、生存者の声を伝えるため、という強い目的を胸に、迷いを感じさせない記し方で彼女の体験を伝えています。

 

②滑稽さ

彼女の話には滑稽さが織り込まれていて、彼女自身冒頭で、

読者が読み進められるように

と収容所体験の奥深い闇の部分は描かないように、あるいはその闇を和らげられるように描かれています。かなり読者の観点を意識した文章です。

具体的な文章は忘れてしまったのですが、私のエッセイにはこのように書いていました。

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In the chapter “Bread,” the scene when the author played with the ball
made of bread calls attention from the readers because of the weirdness, as people usually eat bread instead of playing.

----------------

 

 

こうした2点において、彼女はかなり意図的にこの作品を作っていると私は感じたのです。

 

 

授業では実際にPartonyさんがlectureする動画を見ました。興味のある方はこちらもご覧になってみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=O82G-Fb6HBM

 

 

 

 

もう1作品、あまり言えることがないですが意外にもLittle schoolの話が長くなったので次で其の二は最後です!!

 

 

 

 

 

 

Politics of Memory in Latin American Literature ~其の二~ 前編

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草をこれでもかってぐらい頬張るリス。寒さから解き放たれた夏を他の生物から感じます。

 

 

いやはや、あっという間にfreshman としての授業生活が終わってしまった。

そして今更になって秋学期のまとめを完結させようとしているという。。

いや、まだ1年以内だから、まとめるのも遅くない!

 

ということで、

PhaseⅡ: Read Latin American Literature

についての記事です。

 

 

前回は記憶についていろいろ考えたのですが、ここから本クラスの本題に移ります。

 

 

 

舞台は1970年代から1980年代。その頃のラテンアメリカの政治状況をご存知でしょうか。

 

正直私は何も知らなかったです。高校で習った歴史は実は世界大戦辺りまで、かつアメリカや中国といった、日本が特に深い関係を持っている国を中心に学んできたので、といったところでしょうか。

(理系のトラックに進むと高校では現代史をほぼ教わらないという。ちょっと恐ろしいですよね。地理だと気候というサイエンスな面と、歴史から来る各々の産業構造も学べて、いいなあと最近よく思います。)

 

 

ラテンアメリカ諸国で軍事独裁がはびこっていました。詳しい歴史は知識不足で私からは説明できませんが、

世界では社会主義の風潮が起こっていて、その流れが入ってくるのを嫌ったラテンアメリカ諸国の政権は、政治的に反対派の人達を排除しようと、クーデターや強制連行数多く行いました。

 

軍事独裁時代がすさまじかったのもそうなのですが、次の時代に進むとき、というのもかなりの問題がついて回ります。

 

どんな複雑な状況だったのか、以下クラスで扱った3つの文学と共に、振り返ります。

 

 

  1. "Death and the Maiden" Ariel Dorfman
  2. "The Little School" Alicia Partony
  3. "Sneselessness" Horacio Castellanos Moya

 

 

 

 "Death and the Maiden" Ariel Dorfman

 

これは、独裁政権が終わってデモクラシーに向かおうとしている国でのフィクションです。チリピノチェト政権をイメージしていると考えられています。

 

独裁政権時代、政治犯とみなされ強制収容所にて強姦された女性が、自分を強姦した人に対して正義を勝ち取ろうとするという話ですが、

 

なぜこうした事態になるかというと、

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ルームメイトとの会話「アメリカは貧しい人が嫌い?」

ふぅ。2019年。

冬学期始まって1週間目が終わりました。

なんと、見事に秋休みのまとめを終えず突入してしまった。

Final paper を Latin American Litのクラスで書いたのですが、冬休み明けてもフィードバックも何もなかったので、Profにメールしてみたところ、月曜日にオフィスに置いておくよ!って返事をくれました。

そこにProfがいればお話もするし、いなければまた別の機会に、とも書いてくれたので

ぜひとも1か月前の秋学期の記憶をフラッシュバックさせようと思います。このブログと共に。

 

その前にその前に。

平日は図書館やらstudent activityやらで部屋にいないことが多くてルームメイトのKaty(仮)と会うことも少ないのですが
金曜日の夜はお疲れだったので部屋でのんびりしていました。

 

ルームメイトは明日の陸上チームの試合っぽいもののための準備をしていました。


"Oh, this inhaler is empty."

なんとですね、She is asthmatic! 

短距離走を走るんですが、asthma=喘息持ちなのでinhaler=吸入器がKatyには必須です。

(喘息なのに全速力で走るなんてすごいですよね。駄洒落です。)

 

 

1つ空だったのでもう1個どこだろう、と

まあ無事そのもう1個は見つかったんですが、

 


"Is it purchasable? "

(She is from Chicago, Ilinoi and brought the asthma puffer from her home. So I was wondering whether she can buy anywhere.)と聞いたところ、

 

"No, it's expensive."

と今振り返ってみてミスコミュニケーション(場所focusと値段focusの違い)だったんか、と気づきましたが

 

ここからなんとですね、アメリカは貧しい人が嫌いだとか、保険制度の話とか、アメリカは軍事にお金を使うだとか、high school offers SO-CALLED World Historyだとか、かなり広い話題に会話が膨らんでいったのです。

 

 

 

アメリカは貧しい人が嫌い?」

 

私の頭に小さなはてなが。

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Politics of Memory in Latin American Literature ~其の一~

前回の記事を筆頭に、ブログタイトル=コースタイトルの授業について
実際何をやったのか

私の伝えたいことを中心に書いていきます。


PhaseⅠ: Think about what memory is.

 

記憶ってなんでしょう?
断片的、ひとつのものについて見る人によって覚えていることが違う、時間と共に変化する、などなど。
いきなりcollege level essayに入る前に、自由にmemoryについてエッセイ書いてくださいなんて課題も出されたのですが、(私は筋肉のmemoryについて書きました)


それはさておき、このphaseでのハイライトは、ずばり


Traumatic Experience (トラウマ体験)

 

です。
ラテンアメリカの文学に入る前に、 アウシュビッツ強制収容所の生存者によるaccount(証言)や、誰かの記憶に対する論文の一部を読みました。

 

特に興味深かったのは、強制収容所に入れられる前は作家だったという人が、トラウマ体験をした後で、「書く」という行為とどう向き合っているか、といったことが書かれた自伝です。

 

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