Politics of Memory in Latin American Literature ~其の一~
前回の記事を筆頭に、ブログタイトル=コースタイトルの授業について
実際何をやったのか
私の伝えたいことを中心に書いていきます。
PhaseⅠ: Think about what memory is.
記憶ってなんでしょう?
断片的、ひとつのものについて見る人によって覚えていることが違う、時間と共に変化する、などなど。
いきなりcollege level essayに入る前に、自由にmemoryについてエッセイ書いてくださいなんて課題も出されたのですが、(私は筋肉のmemoryについて書きました)
それはさておき、このphaseでのハイライトは、ずばり
Traumatic Experience (トラウマ体験)
です。
ラテンアメリカの文学に入る前に、 アウシュビッツ強制収容所の生存者によるaccount(証言)や、誰かの記憶に対する論文の一部を読みました。
特に興味深かったのは、強制収容所に入れられる前は作家だったという人が、トラウマ体験をした後で、「書く」という行為とどう向き合っているか、といったことが書かれた自伝です。
もっとはっきり言うと、
「書く」という行為が彼にトラウマ体験の記憶を処理することを可能にしてくれている、というのです。しかし同時に、「書く」ことで記憶としっかり向き合うため、ものすごく彼を苦しめる行為でもあるということです。
結構後者のマイナス部分が彼の脳内を占めているように感じた文章ですが、「書く」という行為に前者のプラス要素があるのは、私にとって新鮮でした。
※ここからは、英語を第二外国語として使う私の解釈によるものです。英文からの読み取りが間違っていることも十分あり得ますが、ご了承ください。
"Literature or Life" Jorge Semprun
Instead of the whole book, we read Chapter 1 "The Gaze" & Chapter 6 "The Power to Write."
トラウマの記憶って、断片的にフラッシュバックしては消えていく、本人にとっても意味不明なものなんですよね。何が現実かもわからなくなる。そして、周りで死にゆく人もいた中どうしてまだ自分は生きているのか、そういったことも、Semprunのなかで解明されないものとして残っています。
彼の頭に浮かんでくることを理解するのを助けるのが「書く」という行為でした。
さて、少し話題が変わりますが、文章の中で印象的だった言葉を紹介します。
(そしてこの紹介の過程で、記憶を処理するってどういうことか、少しでも感じ取ってくれればうれしいなと。)
作者Semprunの頭から離れないウィトゲンシュタインの言葉がありました。
Death is not an event in life. Death cannot be lived. (171)
この言葉にSemprunは悩まされます。
「死は経験できないものって言われているけれど、私は死を目撃し、そして今も生きている。私は死を通り過ぎ、生き抜いたんだ。」
(彼の言葉そのままを引用したいのですが見つけるのをあきらめました)
そういったことを彼は文中で言っていました。
「死」って、確かに死んでしまったら死んだ人はそのあと何も考えるとか息をするとかしないのだから、生きている中で起こることはない、体験できない、一番うなづける考え方ですよね。
しかし、自分は死を生きて通り過ぎた。。(I passed through deathと書いていた気がします)
彼のもがきが感じられる英文(昔の記憶と、今目の前の出来事を記述する文とが交互にならんでいたりする文たち)がずらずら並んでいる中での"I passed through death" なので、生き続けていることへの苦しみが文章からにじみ出ているんですよね。
そして彼は(自分を納得させるため?)この2つの文それぞれのはじめに"My" を加えます。
My death is not an event in (my) life. My death cannot be lived (by myself).
そしてこれが意味することは、他人の死を生きることができるということです。
目の前で1秒1秒人が死にゆく姿を目撃した経験というのは、死を生きたと言えそうです。
どうして自分は今も生きているんだろう、あの有名なウィトゲンシュタインだって死を生きることはできないって言っている、ああそうか、他人の死は生きることができるのか、
そういった思考の過程が、文を読み進めるとともにわかるようになっています。
そしてこの過程こそ、自身のトラウマ体験の記憶をどうprocessしているかを描いています。
あああうまく伝えられない。支離滅裂な文章構造に見せかけて推理小説のようにきちんとプロットがあるのかもしれないけれど、
とにかくごちゃごちゃした脳内を伝えつつ、読者が理解できるぎりぎりのラインで筋の通った文章を書いているSemprun。作家ってすごいんですね。
他の文章で、「誰も自分の経験を理解してはくれないのに、どうして伝える必要があるんだ」「誰も聞いてくれないことが一番の不安」と証言者は言っています。
未経験者に経験者の経験、気持ちは理解しがたいですし、特にトラウマに関しては体験した本人もよくわかっていなくて伝えることが困難。
だからより一層、Semprunの証言は素晴らしいです。
彼の証言は、単なる当時の体験の証言かというとそうではなく、
強制収容所を出たあとの人生の証言も兼ねているという点でも興味深さがあります。
まとめ
- It's hard to understand the memory of traumatic experience evey for the one who experienced.
- My death is not an event in my life. My death cannot be lived by myself.
- Writing can be of help to process memory.
授業で考えたことの半分も伝えられていないですが、考え始めるだけでいろいろなこと(トラウマの記憶に苦しめられる筆者の感情を疑似体験する感覚も含めて)を思い返せるぐらいいろいろ考えさせられた授業だったのです。