Politics of Memory in Latin American Literature ~其の二~ 前編
いやはや、あっという間にfreshman としての授業生活が終わってしまった。
そして今更になって秋学期のまとめを完結させようとしているという。。
いや、まだ1年以内だから、まとめるのも遅くない!
ということで、
PhaseⅡ: Read Latin American Literature
についての記事です。
前回は記憶についていろいろ考えたのですが、ここから本クラスの本題に移ります。
舞台は1970年代から1980年代。その頃のラテンアメリカの政治状況をご存知でしょうか。
正直私は何も知らなかったです。高校で習った歴史は実は世界大戦辺りまで、かつアメリカや中国といった、日本が特に深い関係を持っている国を中心に学んできたので、といったところでしょうか。
(理系のトラックに進むと高校では現代史をほぼ教わらないという。ちょっと恐ろしいですよね。地理だと気候というサイエンスな面と、歴史から来る各々の産業構造も学べて、いいなあと最近よく思います。)
ラテンアメリカ諸国で軍事独裁がはびこっていました。詳しい歴史は知識不足で私からは説明できませんが、
世界では社会主義の風潮が起こっていて、その流れが入ってくるのを嫌ったラテンアメリカ諸国の政権は、政治的に反対派の人達を排除しようと、クーデターや強制連行数多く行いました。
軍事独裁時代がすさまじかったのもそうなのですが、次の時代に進むとき、というのもかなりの問題がついて回ります。
どんな複雑な状況だったのか、以下クラスで扱った3つの文学と共に、振り返ります。
- "Death and the Maiden" Ariel Dorfman
- "The Little School" Alicia Partony
- "Sneselessness" Horacio Castellanos Moya
"Death and the Maiden" Ariel Dorfman
これは、独裁政権が終わってデモクラシーに向かおうとしている国でのフィクションです。チリのピノチェト政権をイメージしていると考えられています。
独裁政権時代、政治犯とみなされ強制収容所にて強姦された女性が、自分を強姦した人に対して正義を勝ち取ろうとするという話ですが、
なぜこうした事態になるかというと、
(デモクラシーに向かうために)独裁政権時代に強姦するなどして罪を犯した人は当時免責され、罪に問われなかったのです。
確かに、数えきれない犯罪者一人ひとりのケースを取り扱う余裕が検察側にないのもわかりますが、
苦しめられた人達にとってその傷はいえることなく、苦しめた人達が罪に問われないのは不公平以外の何者でもないわけです。
しかし時代は次に向かおうとしている。いまだに権力者の影がある。誰も、罪に問うことを声高にして訴えません。
そういったなかで、Dorfmanは物語を通して訴えかけます。
「たった一人殺すことで私たちが何を失うというのか」
自分を苦しめた人を殺すことが解決につながるわけではないけれど、
苦しめられた生存者の、生涯背負い続けるトラウマ体験を考えると、
「苦しめた人の息の根を止めることで少しでも彼ら生存者の傷が癒えるなら」
と通常では非人道的と思える思想も受け止められる気がします。
しかしやはり人を殺すことは解決策にはなりません。仕返しがいつまでも続いていきます。
誰かが譲らなければならない。
その誰かとは誰なのか。
女性?社会的弱者?
こうした、社会が声を大にして言わないこと、簡単に答えが出ないことについて問う力
が文学作品にはあるということを、この本を通して学びました。
残り2冊についても書き残しますが、意外と長くなるので後編に続くとします。